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2015年2月19日木曜日

三宅島と釜山


行くべきとき、行くべき場所へ行くと、こうなるのか…と体感させてもらったようでした。

どんなスケジュールになるかわからなかったので、ほんとうに大切な方以外はほとんど連絡できずに行ったのだけど、会いたい人に絶妙なタイミングで会えた。こちらが無理にのぞむでもなく、会いたい人、行きたい場所に自然とたどりついていく感じが、こんなに重なったのははじめてだった。

なによりも、お世話になった方々にお礼をできてよかった。自分なりに思ったことがしっかりと伝わったみたいで、ありがとうということばが染みた。卒業してからはじめて安心できた。

わたしの隠れ研究目標さえも、少し引き寄せられたのを実感できた。島で必死に生を営んできた昔の人にとっても、よろこんでもらえるものを作りたいと、なぜか研究の最中にふと思っていた。みひかのご飯でいうならば、食べ物が十分にない時代も、精一杯はたらいて、あるものでなんとか暮らしてきた人たちにとって、食とはどんな存在なのか、ということを知りたい、そして、のこしたいという気持ちがあった。今回の島の滞在では、いろんな人と巡り合わせてもらったのも、何かが届いたのかなと思えたし、これはちょっと言いにくいけど(関係がないけど)、島に行くとかならず!かなしばりになってたのが、初めてしっかりと寝られたのが自分にとってかなりビックニュースだった。なにかがいるはいるんだけど、大丈夫。すごい!寝たよ、わたし!とおどろいてた。

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もうひとつ、すっきりしたことがある。韓国人の方で、一年前から民宿をはじめた女将さんについて数日前に東京新聞で記事が載っており、思わず連絡をしてしまい、今日お会いした。そのときのことを通じて、少し解消したことがあった。

記事のもとはこれでした。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015020802000115.html

彼女は50代前半の、ももさんという方で、記事にも書いてあったことだけど、あらためて、なんで島に住むことを決めたのかと尋ねたら「自分の故郷に似ている」とこたえられた。似ているという部分について、より詳しく聞くほどに、ああ、なるほど…と、その場でわたしは妙に納得してしまった。ももさんは釜山で生まれ育ったらしく、場所をきくと、わたしの家族のいたところととても近かった。だから、時代は母の世代で少しちがうけど、ももさんがあたまに描くふるさとの風景をわたしも知っていた。

もちろん、日本で生まれ育ったわたしにとって韓国の地はふるさとでもないし、懐かしむ気持ちもない。一方、三宅に対しては、フィールドワークをした数ある場所のなかから、よりによってなんでこんな寂しいところで卒業制作してんだろ…と何度も後悔しそうになっていた。一区切りついた今でも、それは疑問のままで。それがなんとなく、根拠はないのだけど、三宅島を通して、昔の自分の先祖が生きてきた環境を知るきっかけをもらったのだろうかと思えるようになってきて、自分のなかで腑に落ちる、ひとつの糸口になったのだった。(事柄の解釈、すべてに通じるけど、そう思いたい、というのが正しいかもしれないな。)

韓国の田舎の風景は、山々、というよりどちらかというと岩々といったほうが合っている。岩肌がゴツゴツとむきだしになって連なっていて、植物から感じるような、いのちが溢れるゆたかさとはまたちがう。人が暮らすことにおいても、日本と比べたら十分な環境とはまだいえず、少し山に入るとふつうの生活よりは不自由を感じる。まだ、少なくない人たちが戦争の記憶を引きずっているし、傷がいえてないのが黙っていても、うっすらと伝わってくる。そんな状況とは、もちろん全くちがうけど、そのすがたが三宅島にある火山と、そのまわりのもの寂しい風景と、あの閉塞感と、なんとなく重なるのだ。そういうところだけに限らず、いい部分も似ている。山と海がどちらもあって、風がふくと磯の香りがして、なにもないけど人が健気に生きている感じとか、もしかしたらそういう全部になにか、近しさを感じていたのかもしれない。思いこみといわれれば、それまでだけども、自分がお墓参りをしに行く田舎と、とてもよく似ていた。

今でもわたしにとって三宅島は行きたくないようで、行きたいようで、「好きな場所」とはとてもじゃないけど言いづらい。ただ、いいところだなと、素直に思える日が今回初めて来て(これまで心底いいと思ったことは正直一度もない)、よかったと自分のなかで満たされたところがあったのだった。

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この調子では書ききれないほどに、ほんとうにふしぎな二日間だったのだが、さいごのさいごまでちょっとこの世っぽくないことがあった。(もう、島に来た時点で、トリップ感というのか、そういう見方になっている部分はあるけど。) 伊ヶ谷に帰りの船がつくというので、(これまた絶妙なタイミングでお会いするご縁があって)伊波荘の女将さんに、港まで送っていただいた。出航までまだ時間が相当あったので、見送りは大丈夫ですと伝えて、ひとりで砂浜を歩いて時間を潰した。

なんか(貝とか流木とか)拾って持って帰ろうかなあ、と思って下ばかり見て歩いてたら、漂着したゴミの掃き溜めのような場所があって、とくに意味もなく、枝でゴミを物色していた。ら。かたい、山みたいなものがあらわれた。黒くて、ゆるやかに流線型を描いて、両手を広げるくらいに大きかった。なに?!と思ってゴミをどけたら、ウミガメの甲羅だった。

ほんと?うそ?ほんと?と、ひっくり返そうとしたりしたけど、重かったし、なんだか動かすと可哀想な気がしてできず、首の部分をみたら、肉がのこっていてまだ柔らかく、時間があまり経っていないようだった。顔はもっと深く埋まっていたので見なかったけど、二年前に坪田でマッコウクジラが漂着したのを見た時くらい衝撃だった。かなり甲羅が大きかったから、長生きしたんではないだろうか。ゴミに絡まって海にもどれず死んじゃったのか、海で死んだのがここまで流れついたのかはわからないけど、あまりにもひっそりと死んでいて、海の神様のようだ…と思ってしまった。

いろいろと、もっと、卒業制作に関係した細かいことをたくさん書きたいけど、感極まった一部を残しとく。とりあえず、すごい船酔いをした帰路でした。まだ、頭の中が揺れている…。

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