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2015年4月6日月曜日

めがさめた

生まれてこのかた、二十三年も経って、はじめて感謝するってことをちゃんとわかったと思う。自分中心に物事を考えているところがあるなと思ったり、人の好意をすなおに受け止められていなかったり、もっと人を信じて、信じられたいのにそれができていない実感がむかしから、実はずっとあった。少しずつ、その違和感をなくしたくて、なおそうとしていたはずではあるけど、根本的なところまで自分で見つめ切れていなくて、家族を通して、やっぱりわかっていなかったんだなあと思わせられた。わずらわしいことはいやなのに、孤独を感じたくなかったときがずいぶんあったのだ。かんたんにいうと、人付き合いをとても面倒くさがっていた!

まわりの人に、いつもとてもゆるしてもらって、わたしはただ甘えていたんだなあと、やっと気づけた、ような気がする。

誰にも頼らず自分だけでどうにかしていくことが、一人前になることだと思っていたし、おとなになることだと思っていた。でもそんなことはできなくて、いつも私はだれかのお世話になっていて、一人で生きていくことなんてできないのだ。いやだなと思うひともことも、自分と相手の関係のあいだで起こっているということは、自分に省みるところがあるから必然的に生じている。それを端的に相手のせいにしたり、ほかに理由を見つけているかぎりは、何度も同じことが起こるんだと、あーこれまでたくさんあったな!と思いながら、おしえてもらった。

これまで、あまりにも「自分がよければいい」という考え方できていたから、まわりの人が自分に世話をやいてくれたり、好意をもって接していてくれたことに対して、「なんで?」っていう気持ちがずっとあって、理解できずにいた。時には「そこまでやる必要ないのにな」ってなことまで思っていたことすらある。そうじゃなくてもとりあえず、ありがとうと言っておこう、大事な気がする、くらい。それでもやっぱり、そこに自分の気持ちを込めきれいていないもどかしさみたいなものがあった。だから、ほんとうの意味でのお礼はもちろん伝えられていなかっただろうし、感謝のことばだけでなく、思っていても伝えられていないことがきっとたくさんあった。それは思っていないよりもたちがわるくて、きっと自然と自分のもとから離れていった人はいっぱいいたんだろうと思う。だからこそ、こんな自分なのに、今でもよくしてもらっている家族とか友達に、あらためてありがとうって思ったりした。

生まれてから何年も、親の手によって育てられて生きてきているかぎり、いまおかれている状況は常に、自分ひとりで培ってきたものではないし、それはこれからも社会で働くようになったって、結婚して家庭をもったって、いつでも同じ。

そんなことを実感せず、ひとりよがりで、いまのいままで来てしまったけど、気づいたときがはじまりなんだと受けとめて、もっと人とまじめに付き合っていきたい、ととてもとても!強く思った日なのでした。


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