ふと今、小学二年生のときにクラス全員で、詩を朗読したなあってことを思い出した。そのうちのひとつが、谷川俊太郎の「朝のリレー」。
カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
(谷川俊太郎「谷川俊太郎詩集 続」思潮社 より)
そのときは、ことばの意味も深く考えようとなんてせず、ただ、おぼえようとしていた。カムチャッカってどこさ、みたいな。
ただ、小さいときに読んだものや聞いたことについて、決してその景色を実際にみたわけではなくても、その当時自分が想像した世界を、なんの迷いもなく一瞬で思い描けるからふしぎだと思う。
外人の男の子がみるであろう、きりんの夢というのも、朝もやのなかでバスを待つ明け方の澄んだ空気とか、ローマの少年のウインクは、日本人がするのとちがって、きっと似合うし上手なんだろうっていうこととか。経度から経度へ、朝をリレーするということばから、そのときの私なりの、世界のひろさを想像していた。
読み手にすべてを託されているからこそ、出会える景色っていうのは、実は絵本とか本の挿絵よりも自分のなかにしっかりとのこっている。八十才になっても、朝のリレーを読めば、おなじ景色を思い出すんだろう。
それってとてもしあわせなことだと思う。ものがたりや詩のもつ力ってそういうのもあるんじゃないのかな。
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