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2013年11月2日土曜日

美術ってなにかしら

今日は大邱美術館に行った。草間彌生の展示は二回目。一緒にいった友達は、良さがわからないようだった。私も正直、一度目なんであんなに興奮していたのか覚えていない…。
でも、いろんな絵の見方があるんだなと思った。

わたしは、作者がどんな人なのか、何を考えて創作しているのかということももちろん気になるけど、それ以上に、それを見た時自分自身がどう感じるのかが一番大事だと思っている。その瞬間は正直、作り手の意図は組まないほうが自然だ。一番理想なのは、作り手の背景を知らずとも、心地よく眺められること。自然の景色を目にするときのような感覚を呼び起こしてくれるものこそ、いいものなんじゃないかなと思う。作り手自身の特別な深い意味が込められてないことが、一番理想なのではないだろうかなあ。

芸術、美術は幅が広い。「作品」とされるものでいえば、例えば昔の遺跡や生活器具も、希少かつ美しく作られているものは今の時代で芸術に分類されることがある。人の手を加えない、自然を写す写真や映像も「美しさ」という点で分類されやすい。人が感性の赴くままに描いた、今日の展示のような作家たちもいる。しかし一方「トマソン」のような考現学の分野では、人の文化の中で生まれたものでありながら、作り手の意図なんぞあってはつまらないと思われているときすらある。

要は、ある切り口でものを捉えたときに見える、あたらしい世界の視点というのが大切なんだろうか。美術ってことばは生き物のようで、どうにか捉えようとするとしんどい。これは美術に限らず、運動とか勉強とか、その時代ごとに指す内容が常に変わっているんだ。

わたしは何かの作り手でありたい思いがありつつも、純粋な探究心で絵画や音楽と向き合えなかった。何度もそういうものに救われていたけど、胸の底からうおおとわき上がる何かがひとつ足りなくて、そっちの道に進む自信がなかった。今は、あたらしい切り口を見つけて物事を捉える作業を、社会学の分野を通じて体験している。

なんの利害もなく、感性のままに物づくりをしている人たちも、実は色んな信念や問題意識があるんだろうなということを、最近思うようになった(当たり前なんだけど)。

絵は描くのも見るのも好きだけど、やっぱり、これから専門的に学ぶものではなさそう。と、今日ふと美術館にきたときに思った。どこかまだ「美術」であることに固執している自分もいるし。かといって、キュレーターとかデザイナーにはなりたくないのだ。商業的な部分はどの分野にも必要だけど、美術の分野ではそれを担いたくない。

日々の生活を尊んでいれば、純粋な美術に近づいていけそうな気がする。絵を食べることで生きていくと決めた人たちを会ってもないけど思い浮かべて、とても引け目を感じているときがあったんだけど、それはそれだ。わたしは、現実で自分がもうちょっとふむふむと学べそうなものがあったり、出会いがある一方で、自分と向き合う時間に、非言語の時間が必要なんだと思う。そして、それを人に見せる機会があると、そういう部分の自分も認めてもらえたような気がして、うれしい。というと、やっぱり生温くも思うんだけどね。


純粋な意欲は、生活のどの割合をそれが締めていようと、芸術になり得るわ(なっとく)


---あとづけ

多分、いろんなルートから来た何かの結晶をみることが好きなんだ。そのためのアウトプット技術を学ぶ為に、映画なり写真なり、絵画なりがあるとおもうんだけど、どのみちそれをするための意欲や動機、夢が必要なわけだ。

わたしは高校生のとき、それがなかった。だから、選ばなかったんだ。で、今たぶん順調だ。

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