(前回:美術ってなにかしら http://oimaninaro.blogspot.kr/2013/11/blog-post.html )
わたしは今まで高校生のときからずっと、「美術で食べていくことって可能なの?(むりだろう…)」みたいなことを思っていた。まあ、そこでいう”美術”って何なのかとか突っ込むところが多いんだけど(その区分についても、後々に書きたいところ)。その疑問、今のいままで引きずっていたようだ。
美術のフィールドにいなくたって、自分の赴くままに表現することは生涯通してできるはずだ。方法だって学校で習うわけじゃないから効率わるくなってしまうかもしれないけど、自分で見つけていけばいい。美術を学ぶ人同士だけがつるむような、内向きな表現の世界にはいたくない。こういう…よくわからない意地があって、いまの大学も選んだし(人にほとんど話したことないけど、そもそも美術を含んだ、全てをとりまく”社会”を知りたかった。で、ミュージアム運営・経営とかの授業とって、つまらなくて愕然としてた。少なくとも日本ではシステムとしてミュージアムは十分に機能してないし、企画も魅力的じゃないことが多々あるんだ。アートによる地方活性化プロジェクトだって直接に携わってみたけど(ほかのプロジェクトが全部そうなわけじゃないだろうけど)なんか乱暴だなと思って違うと思った)、いまはじきに卒業を迎えようとしている。とにかく、今のいままで「食べるために描く」ということがどうも繋がらず、最近までその疑問は他人事のようになりつつあった。(そして、もし食べるために描くことになったら……それは苦行でしかないだろう、と怖かったのもある。)
表現するということは他者に認めてもらうためのツールでもある。(理解されなくてもいいと思うのがアートだという人もいるけど、少なくともわたしは生み出したものが人の目に触れることがやりがいになっている部分があるから、理解されなくてもいい…と割り切れない。)少し前に思ったけど、研究会でいうポスターのような役割なのだ。大勢の目を引く、すぐれた広告力というものよりは、取材側と応じた側のあいだでたしかに感じる一対一の「繋がり」をもとめた表現に充実を感じている。だからといって、研究会で取材を通して作るのポスターは「アート」…ではないだろう。あるプロセスを踏んで、結果を得るから(それは見えるものに限らないし、とても私的でその時々で特定できないものだけどさ)「デザイン」なのかな〜(ぼんやり)と思う。第三者がみても、理解ができる媒体としてそもそもデザインされてるし。
いまの大学にでてよかったことは、いろんな「作る」があるということ。一度美術畑から外に開けた世界を見て、これはほんとうによかったと思う。出版の世界で本を作っている人たち、バイト先の主人、これまで取材を通して出会った商いをする人々、自分の親だってみんな、ざっくり言ってしまえば自分の生活を「デザイン」しながら生きている。つまり、自己満足ではいけない世界で生きているということ(と書いてると、アートは自己満足なの?と思うけど、そういうものとそうじゃないものがあると思う。他者に大きく影響を与えるものは確実にある。)、とにかく食べるために何かを作りつづけている人たち全員がそれにあたると思う。彼らはそれを作ること自体、まず第一条件に「好き」が根本にあって、それをお客さんに合わせて、時代に合わせて作っている。バイトとかを通して思ったのは…自分の「いい」が、お客さんの「いい」にマッチしたとき、うれしかった感覚かなあ。その工程を通して「儲かる」しね。その判断基準はもちろん、相手を想像して決めているわけで。そう思うと、デザインって別にこむずかしいことじゃないんだと思う。
もう、あれこれ前後しますね。若干眠いし。でも起きたら書けなそう!
美術を選ばなかった利点も、このようにあるわけだけど、一方で自分にとって表現ってなに?(発散の手段として、自己満足のままでいいのか?それとも、他の人に求めてもらえるように極めたいのか?)ってわからないままになっちゃってるということ。4年間専門的に美術の道を極める人もいるというなかで、うららかに続けるというのに、なまぬるさを感じている。つまり、同じ畑で学ぶことは内向きな集まりになる恐れもあるけど、同時に、似たような価値観、意識をもった仲間たちと刺激し合いながら現実を生きていこうとする場がもてるということ。作家のかたわら、バイトして食べていけるのが今の日本だから、そういう人も多いだろうけど、みんなどんなタイミングであれ「どう食べていくか」真剣に考えているだろう。当たり前だけど、環境ってとても大事だ。いまのわたしにとっては、現実があって(大学だったりバイトだったりの日常)、そしてものづくりに一人で没頭する”発散”としての美術という立ち位置がある。その純粋さを曲げたくない、と思うと同時に、ときには自己満足になりがちだし、非現実的な行いだなあ…とも思っていた(それは表裏一体でつきものなのかもしれないけど)。
で、これまでぼやーっと疑問だったことがさっき解決した(気がする)草間彌生問題。いうならば村上隆も、奈良美智も、代表的な現代作家にはあてはまること。「描くもの、作るもので食べるということの果ては、こういう人たちなのか?」という素朴な疑問だった。というくらい、アートが消費されているという印象を受けている。ようは「一見、純粋な美術だけど、鑑賞者やファンにあわせてしっかりマーケティングされてるなあという感じ。大邱美術館にいったとき、友達が「こいつ(草間彌生)、金儲けのために作ってるだけだって!」とわたしに話したのが思ったより印象的だったわ(笑)そのときはピンとこなかったけど、ああ、そういうのはどこでも必要なんだなあとあとで気づいた。村上隆の場合はそれが強烈に表にでてるのもあって嫌われる対象になりやすいけど…、全員やっぱりアートでビジネスをやっていると思う。アートで食うっていうことはつまり、お金の流れの中に入るってことで、需要と供給の関係性が生まれざるをえないんだ。作り手にとって、それってすごくやっぱりむずかしい問題だ。だから芸術分野にたけている人の一部は、教員になりたいんだと思う。その選択はとても純粋だから。
イラストと絵画だって、ときに要はデザインとアートの違いだと思う。何かの要望に応える絵というのは、その人の技術や志向が基盤にあって、そのうえで依頼に応えることが最優先だ。大学に入って、そういうイラストとかを描かせてもらう機会があって思うけど、そういうのも嫌いじゃない。むしろたのしい。他人の作品を活かす為の、自己表現とはちがう広がりをもった作品に自分自身があらたに出会えるからだ。そういう刺激し合いこそが表現の醍醐味なんじゃないかとも思う。(絵と音楽、映像とのコラボレーションとかにとどまらず、絵をみる鑑賞者自身が何かアクションを起こしてくれるなら、それはいつでも相互関係があるといえるんじゃないかな。今はそれなかなかできてないし、どうやるのかわかんないけどさ。)
さっき、書いた美術畑の内向きの世界どーのこーのというの…考えたけど、なにも美術に限ったことじゃないよね。料理界は料理界にしかわからない、人の繋がりや価値観があるし、たとえば今の旅先である場所はとてもとても田舎なんだけど……ここもある意味ひとつの価値観を共有している、ある部分は内向きの世界だと思う(こういうときに三宅を同時に思い出す)。それがいいと言ってるわけじゃない。表現することは外に開いているべきだから、「わかってもらえなくてもいい」というスタンス全開で作られているものは、アートどうのこうのではなく所詮その人の人格なのだ。前回の1のブログで書いたけど、作者の意図が100パー伝わらなくたって、いいものはたくさんある。ビートルズのようなものじゃないんだろうか。ただ、いいなと思わせる力をもっている。私自身も、(それはもしかしたら商業的な狙いが含まれているものもあるのかもしれないけど)誰かユーザーを対象としたデザインされたものよりも、とても私的な日常の記録(絵なり写真なり、文章なり)に興味がある。そしてお金をだしてもいいと思えるのもたしかなんだ。
はー
ほんと、ばらばらになるけどさ
卒論のテーマも(展示の時期で、みんなの作品をfb通して写真でながめてて思うんだけど)、島の女将さんとかはちょっと置いておくほうがいいわ。いや、本能的に選んだから最終的につながるとは絶対思うんだけど。
要は
「作る」人の価値観、自分の生活を作り上げること、果てには「創作で、食べるとは?」っていう疑問がずーーーーーーーっと、ずっと、あるのだ。それのヒントを見つけたいのだわ。ここまで書いて、自分が卒業後なにを学ぶべきかの答えでた。書くことって整理することであり(整頓されてないけど)、治癒でもあるね。
あ、あと(つぎはぎ)もし表現して生きていくうえで(多分、大きな目でみて、みんなそう)、それはだれよりも謙虚であるべき存在なのだと最近思う。だって、たとえば植物のかたちの美しさに見せられて大きな影響を受けたものを作品に落とし込んだとしても、その植物の生態とか成り立ちは、美術家よりその植物の専門家がやっぱりたくさんよく知ってるもんだろう。(そして、人々の生活に役立つと思われることが多いだろう。)そういう、地味というか、いまの研究会のことばでいう「ふつうの人の暮らし」というものがいつでも一番尊いのだ。最近みた미인도(美人図)という映画の絵描きみたいに(名前忘れちゃったなあ)、ものを残すならば今生きているひとたちを尊敬する気持ちをいつも忘れたくない。
追記(しっちゃかめっちゃか)
ノイズでのものを作る工程には(音ってなんかよくわからん!ってなって、途中で諦めちゃった部分あるけど)、すごく学ぶものがあったなあ。自分の志向だけで自己満足のために作るものって、結局人に響かない。新しさを求めるだけというのも違う。自分なりの音の切り取り方を「魅せる」方法を教わった。それは音にも限らず、人が見向きしなかったこと、気づかなかったことに価値をあたえていく作業はある程度基盤がなければできないということを教えてもらったり、技がなくたって鮮明としたビューをもてば(もしくは作業しているうちに近づいていければ)、それに向けて実力をつけていくことが、むしろとても大切なんだと。
メモ(もうなんのこっちゃ!!!)
高校生のときに気づいた、最初の絵を描く時の気づきをふといま思い出した。絵って、かくのすごい時間かかるけど、見る人ってまじで一瞬だということ。ものづくりって言えばぜんぶそうか。でも、もともと見ることが好きだったから、ぱっとうける印象のそのいきおいのまま描けると思い込んでた時期があり、持久力がなくて、断念したというかんじだった(そのときはでかいキャンバスに描くことがすきで、絵の具もたくさん使わなきゃいけないし、想像してるものから技術がなくてとおざかってくし、なかなか乾かないから完成しないし……という、そりゃあそうだということの数々)。
だから、イラストサイズにおちついたのよね。なつかしい笑
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