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2015年2月19日木曜日

三宅島と釜山


行くべきとき、行くべき場所へ行くと、こうなるのか…と体感させてもらったようでした。

どんなスケジュールになるかわからなかったので、ほんとうに大切な方以外はほとんど連絡できずに行ったのだけど、会いたい人に絶妙なタイミングで会えた。こちらが無理にのぞむでもなく、会いたい人、行きたい場所に自然とたどりついていく感じが、こんなに重なったのははじめてだった。

なによりも、お世話になった方々にお礼をできてよかった。自分なりに思ったことがしっかりと伝わったみたいで、ありがとうということばが染みた。卒業してからはじめて安心できた。

わたしの隠れ研究目標さえも、少し引き寄せられたのを実感できた。島で必死に生を営んできた昔の人にとっても、よろこんでもらえるものを作りたいと、なぜか研究の最中にふと思っていた。みひかのご飯でいうならば、食べ物が十分にない時代も、精一杯はたらいて、あるものでなんとか暮らしてきた人たちにとって、食とはどんな存在なのか、ということを知りたい、そして、のこしたいという気持ちがあった。今回の島の滞在では、いろんな人と巡り合わせてもらったのも、何かが届いたのかなと思えたし、これはちょっと言いにくいけど(関係がないけど)、島に行くとかならず!かなしばりになってたのが、初めてしっかりと寝られたのが自分にとってかなりビックニュースだった。なにかがいるはいるんだけど、大丈夫。すごい!寝たよ、わたし!とおどろいてた。

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もうひとつ、すっきりしたことがある。韓国人の方で、一年前から民宿をはじめた女将さんについて数日前に東京新聞で記事が載っており、思わず連絡をしてしまい、今日お会いした。そのときのことを通じて、少し解消したことがあった。

記事のもとはこれでした。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015020802000115.html

彼女は50代前半の、ももさんという方で、記事にも書いてあったことだけど、あらためて、なんで島に住むことを決めたのかと尋ねたら「自分の故郷に似ている」とこたえられた。似ているという部分について、より詳しく聞くほどに、ああ、なるほど…と、その場でわたしは妙に納得してしまった。ももさんは釜山で生まれ育ったらしく、場所をきくと、わたしの家族のいたところととても近かった。だから、時代は母の世代で少しちがうけど、ももさんがあたまに描くふるさとの風景をわたしも知っていた。

もちろん、日本で生まれ育ったわたしにとって韓国の地はふるさとでもないし、懐かしむ気持ちもない。一方、三宅に対しては、フィールドワークをした数ある場所のなかから、よりによってなんでこんな寂しいところで卒業制作してんだろ…と何度も後悔しそうになっていた。一区切りついた今でも、それは疑問のままで。それがなんとなく、根拠はないのだけど、三宅島を通して、昔の自分の先祖が生きてきた環境を知るきっかけをもらったのだろうかと思えるようになってきて、自分のなかで腑に落ちる、ひとつの糸口になったのだった。(事柄の解釈、すべてに通じるけど、そう思いたい、というのが正しいかもしれないな。)

韓国の田舎の風景は、山々、というよりどちらかというと岩々といったほうが合っている。岩肌がゴツゴツとむきだしになって連なっていて、植物から感じるような、いのちが溢れるゆたかさとはまたちがう。人が暮らすことにおいても、日本と比べたら十分な環境とはまだいえず、少し山に入るとふつうの生活よりは不自由を感じる。まだ、少なくない人たちが戦争の記憶を引きずっているし、傷がいえてないのが黙っていても、うっすらと伝わってくる。そんな状況とは、もちろん全くちがうけど、そのすがたが三宅島にある火山と、そのまわりのもの寂しい風景と、あの閉塞感と、なんとなく重なるのだ。そういうところだけに限らず、いい部分も似ている。山と海がどちらもあって、風がふくと磯の香りがして、なにもないけど人が健気に生きている感じとか、もしかしたらそういう全部になにか、近しさを感じていたのかもしれない。思いこみといわれれば、それまでだけども、自分がお墓参りをしに行く田舎と、とてもよく似ていた。

今でもわたしにとって三宅島は行きたくないようで、行きたいようで、「好きな場所」とはとてもじゃないけど言いづらい。ただ、いいところだなと、素直に思える日が今回初めて来て(これまで心底いいと思ったことは正直一度もない)、よかったと自分のなかで満たされたところがあったのだった。

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この調子では書ききれないほどに、ほんとうにふしぎな二日間だったのだが、さいごのさいごまでちょっとこの世っぽくないことがあった。(もう、島に来た時点で、トリップ感というのか、そういう見方になっている部分はあるけど。) 伊ヶ谷に帰りの船がつくというので、(これまた絶妙なタイミングでお会いするご縁があって)伊波荘の女将さんに、港まで送っていただいた。出航までまだ時間が相当あったので、見送りは大丈夫ですと伝えて、ひとりで砂浜を歩いて時間を潰した。

なんか(貝とか流木とか)拾って持って帰ろうかなあ、と思って下ばかり見て歩いてたら、漂着したゴミの掃き溜めのような場所があって、とくに意味もなく、枝でゴミを物色していた。ら。かたい、山みたいなものがあらわれた。黒くて、ゆるやかに流線型を描いて、両手を広げるくらいに大きかった。なに?!と思ってゴミをどけたら、ウミガメの甲羅だった。

ほんと?うそ?ほんと?と、ひっくり返そうとしたりしたけど、重かったし、なんだか動かすと可哀想な気がしてできず、首の部分をみたら、肉がのこっていてまだ柔らかく、時間があまり経っていないようだった。顔はもっと深く埋まっていたので見なかったけど、二年前に坪田でマッコウクジラが漂着したのを見た時くらい衝撃だった。かなり甲羅が大きかったから、長生きしたんではないだろうか。ゴミに絡まって海にもどれず死んじゃったのか、海で死んだのがここまで流れついたのかはわからないけど、あまりにもひっそりと死んでいて、海の神様のようだ…と思ってしまった。

いろいろと、もっと、卒業制作に関係した細かいことをたくさん書きたいけど、感極まった一部を残しとく。とりあえず、すごい船酔いをした帰路でした。まだ、頭の中が揺れている…。

2015年2月13日金曜日

カラオケ

韓国で道を歩いていると、とにかくカラオケが多い。こちらではうた(노래)の部屋(방)という意味で「ノレバン(노래방)」という。夜ご飯を食べながら「今日歌いたいね」「わかる。ノレバン行きますか」と、喫茶店にコーヒーを飲みに行くぐらいに身近な娯楽だ。(言うなれば、大邱は歩いていると喫茶店かノレバンしかない。)日本もカラオケは少なくないけど、韓国ほどは生活に根付いていないと思う……。

スナックにあるような、ワンコインカラオケというのもごくごく普通にあって、一曲ごとにお金を払い歌ってすぐ帰れる。

留学中のクリスマスイブは、寮からワンルームへの引っ越し日と重なってしまい、荷物を整理しながら一足早く年越し気分にひたると共に、やはりひとり寂しかった。

そんな夜中に友人と約束をして公園で運動した後、パン屋さんの店頭で流れるビートルズを聴いて「これだ!」とワンコインカラオケに向かった。店で流れてたAll Need Is LoveとImazineの2曲を歌い、ささいな心配から大きな世界単位の問題までも受けとめられるような寛大な気持ちになって、とても幸せに家に帰った。

バス

韓国のバスは運転がとにかく荒い。日本でだって、運転手さんの機嫌がわるい……?ってとき、ちょっと乱暴に感じてたけど、韓国(とくに大邱)と比べるとかわいいものだ。現地の人はこの運転に慣れているのかといえば、ぶつかったりこけたりと平気ではなさそうだけど、表情だけはいつもいたってふつうだった。

乗車するときも列はなく、バスの扉が開いた時点で乗り場から近い順に、押したりもまれたりしながら乗っていく。降りるときは、日本と同じで次の駅のアナウンスに合わせて降車ボタンを押す。ときどき運転手のおじさんがアナウンスを流すタイミングが遅かったり(ときには変えないまま駅を通り過ぎたり)するので、降車間近に「降りる!!」と言って席を立つこともあった。「もっと早くに知らせろ!!」と怒られるので、自分でもどっちが悪いのかわからない。


とはいえども、なんだかんだバスながらに十分速くて、車内でラジオが流れているときもあったりと自由度も高く、いまでは日本のバスより快適に感じるかも。

お正月

前回、初めてお正月を韓国で過ごした。旧暦なので日本よりも一ヶ月ほど遅い。過ごし方としてはさほど変わらず、家族みんなで家の中でまったりとするのがふつうらしい。

お歳暮のようなものが韓国にもあって、帰省シーズン電車に乗るとみんな大きな手みやげを抱えている。わたしも親戚の家を尋ねるときは、済州島のみかんを持っていった。

日本とのちがいを感じたのは、新年の挨拶のときだった。日本人の場合、挨拶は親も子どもも正座で座って向かい合い「明けましておめでとうございます」と互いに頭を下げる。(それが一般的なのかはしらないけど、名古屋の実家ではそうしている。)


これに対して韓国では、目上の人(祖父母や両親)に向かって、子どもたちが頭をさげて新年の挨拶をする。それに対して、目上の人たちは「福がたくさん訪れるように」「勉強がよくできるように」など縁起のよいことばを送るのだ。そのとき、お年玉もくれる。

ふだんは和気あいあいとした親族同士でも、どことなく緊張感があった場面。(叔父さん、叔母さんがいきなりめっちゃえらそうになった。)上下関係を大切にする文化は、こういう習慣としても表れるのだなあと思いました。

結婚式

韓国で結婚式場に潜り込んだことがある。休日だったこともあって、ちょうど式を挙げていた。そんなことして大丈夫なのかと思われるかもしれないけど、日本とはちがって式場には何組もの新郎新婦とその招待客でごった返しだった。私が訪れたのはひとつの建物がまるまる結婚式場で、二階は待合室、三階はレストラン、四階は式場と写真館という具合。

挙式もオープンに行なわれていて、きらきらしたライティングに囲まれながら登場すると誓いのことばを交わし、ファッションショーのようにバージンロードをそそくさと歩いて去っていった。その流れ全部通しても、十五分くらいじゃなかっただろうか。

式が済んだら、招待客はすぐにレストランへ行く。(ここは食券がなければならず、入れなかった。)あとは自由解散……という具合だそうだ。

ほかにも、レストランやカフェを貸し切って行なうスタイルなど、それに限らずいまは大分、多様化しているそう。でもねえ。


一緒に見ていた韓国人の友達は「こんな風に式を挙げたくない」と言っていた。私も、人生の記念となる日はもう少しゆっくり味わいたい気がする。どこまでせっかちな民族なのかしらと思いました。

1+1

思えば、もう1年以上も前のことだけど、今更ながら、韓国で思ってた「?」や「!」や「?!」ということを少しずつのこしていこう。(のこそう、のこそうと思いつつ、1年経っただけなんだけど。)幸いにも、タイトルらしきものだけずらっと50こくらい書き出してあるのだった。

思い出せる要素が、かなりぼやけている気がするんだけど……(ところどころ、何を書きたいのかわからないし)なにもしないよりはマシかなとおもい。春になったら、また書かないかなとも思うし。

気長に、日記として書くことがとくにないときにでも書いていこう。

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一度か二度、韓国へ来たことがある方はご存知だと思うのだけど、韓国は売り物の量がなにかと多い。欧米なら容れ物がそもそも大きいというパターンなんだけど、韓国はワンプラスワン、ツープラスワンなどおトク感をゴリ押しして、数で売ってくる。

来たばかりで買い出しに行ったとき、一本売りの歯磨き粉を探すのにとても苦労した(六ヶ月しか滞在しないつもりなのに、全部三本や四本売りなのだ)。結局「これでも余るなあ……」というくらいの大きなチューブを一本見つけて買った。

するとある日、ルームメイトが抽選のはずれ商品で歯磨き粉を十本近くもらって帰ってきた。断ったら申し訳ないくらい、彼女がかわいそうに思えてきて(彼女も留学生だったので、滞在中にそんなに必要ないのを知ってた)、仕方なく大きなチューブを二本もらってしまった。(結局、帰国するときに捨てた……。)


旅行のときはおまけ文化の恩恵を受けて浮かれていたが(化粧品とかお菓子とか)、短期留学の間はいつも悩みの種だった。住むとなったら、またありがたいことなのだろうけど。日本人的なのか、ぜいたくかもしれないけど、200円で3本買えるなら、いい質のものを同額で1本買いたいと思ってしまうよねえ、ものによっては……。

2014年11月4日火曜日

ビーちゃん

韓国で仲がよかった、ブラジル人の友だち(ガブリエルという名前だけど、なぜかビーちゃんとよんでいた)。としは28歳で、韓国に来る前はジャーナリストだったらしい。ブラジルでは今、日本のアニメ、KPOPが急速に浸透しているらしくて、そのカルチャーを取り入れる働きができる仕事につきたい…といってたような。

そんなことからも察することができそうだけど、潔い態度がとても気持ちよかった。愛嬌のある素敵なオーラを放っていて、動きも喋りもラテンで、すぐに踊るしキスするし、なんだかキュートなガールで憧れていたのである。

ある日、ビーちゃんがうらやましいよ〜と話した。たしかそのとき、自分のこれからについて少し悩んでいたときで、そのこともあって芯をしっかりもってる彼女がより一層遠く思えたのだが、かえってきたことばが印象的だった。自分がのぞんだように生きてきたように見えているけど、日々エラーがでまくるのがふつうで、それに勝とうともう一度トライ!そしてまたエラー!それをどれだけ繰り返してるかわかる?といわれた。

わたしは何事も、一発でOKをだそうとしてしまうところがあるのではないかと思い、だから粘りが足りない部分にもなっているし、一度自分がのぞまないことが起きるとすぐにめげている。

でも、日々とか自分の幸せって、そういうトライ&エラーでしか作り得ないから!と言い切る彼女に頭を叩かれた気がした。

だから、日々悩むことは当たり前なのである。悩みつづければ答えは近づいていくのだ。だから、前向きに悩むのだ。

2014年4月5日土曜日

とあるホテルで

昨日泊まったホテルのロビーに入った瞬間「今日は絶対かなしばり〜」と思った。でも結局、かなしばりにはならず。その代わりにふしぎな夢をみた。

とあるホテルで、わたしは宿泊者の一人としてなのか、またはホテルのオーナーだった。インターホンをのぞくと、ホテルの前には10〜20人くらいの人たちが立っていて。「入れてくれ、逃げてるんだ。ここで隠れないと殺されちゃう」という感じだった。わたしは「この人たちを受け入れたらいざというとき、自分も殺されてしまう。どうしよう」と思っていた。のちに、でもやっぱり見捨てることはできなくて全員ホテルに入れた。

そのあと、バレちゃったりバレなかったり。というのも同じ夢を4時間くらいの睡眠のなかで3回みた。ちょっとずつ違うんだけど、さすがに3回目は、またこの夢かってかんじで。

ただ、わかってほしいのかもしれないなとふと思った。寝る間際に、ベッドの横に立ってわたしを見ている人が(みえないけど)いるな…(無視しよう…)と思っていたんだけど、そういうときの雰囲気からも、ただその必死さとか、もしかしたら無念さも伝えたかったんだと思う。なんかその夢がとても切羽詰まっていて、結局無念だった。


そんなふしぎな夢をみたんだよね〜ということをお父さんに次の朝話したら「ああ、ここはそういう土地だもんね」というのだった。ぞぞぞぞぞぞぞ…寒気すごいのですが、でも納得。韓国は今でいう北朝鮮と1950年代前半に戦争をしていた。そのとき、北の軍が一気に攻めてきた一時期、韓国は釜山のほかに領土をなくしていた。要はみんな釜山まで逃げてきたんだよね。これ以上逃げ場がない、というとこまできて、アメリカが韓国に応援軍を送った。そこからまた戦争はやったり、やられたりを3年くらい続いているんだけど…。

多分そういうときに、なにかあった場所だったんだと思う。昨日泊まったホテルは(笑)そのときの気持ちはほんの少し、夢を通してわかったし、結果どうだったであれあなたの勇気ある決断に救われた人はたくさんいると思います。おつかれさま、ありがとう。って心のなかで伝えておいた。

やっぱりこう書いてておもうけど、韓国は自分がおった傷をまだ癒していない気がする。だってたかだか60、70年前の出来事だもん。日本も対して変わらないけどさ。小さい国だからこそ「国」として認識するね。広島とか長崎も、おなじようなものなのかもしれないけど……念の深さというのかな。それを見つめないでは、韓国自体これからよくなっていかないように思う。

2014年4月4日金曜日

通訳さん

今回、わたしとお父さん、滋賀に住む父方の親戚である、おじさんおばさん夫婦と4人で「植樹祭」に参加している。3日目である明日は自由行動で、父方の家族のお墓参りとか挨拶に行く予定なんだけど……、今夜の食事で何人か親戚がすでに来て下さって、一緒にご飯を食べた。

わたしがいるから通訳を一人も呼ばなかったことをその時に知って……(留学行かせてもらったから、つとめなければいかんのかもしれんけどさ!)猛烈にずっと通訳した。で、惨敗した。全然うまく伝えられない。

いわゆるQ&Aなら、少し表現を変えたってほしい答えをもらうことができる。でも、たとえばお年寄りがこぼすような思い出話って、ひたすら話しているんだよね。どのタイミングで訳せばいいかむずかしかったし「結局だから何?」っていう話の内容ではないんだよね。いわゆる雑談。これって、お互いのリズムが大切だしほんとうにむずかしいと思った。


そして。たとえば相手に対して、怒りの感情を抱いていることを伝えなきゃいけないとなると、自分も親戚だから感情的に板挟みになって、少ししんどかった。「そこまで言わなくてもいいじゃないか…」ということを伝えなきゃいけんこととか、それに対する相手の表情とか。うーん。なめてた。

でも、わたしだからこそ伝えられることもあると思って。本当はこういう思いがあるんだと思います、ということとか、お礼を伝えるとか。どうせ通訳とくらべて私は全然できないんだから、わたしができることの限りで全力で尽くそうとおもった。互いに伝えたいことはもっとたくさんあったと思うけど、こういう在り方でもいいんじゃないかな(笑)最終的にはことばじゃないもん。そもそも「会う」っていう時間がとても大切。長くこの関係があればいいなと思うかぎり。

日本がすき

お墓参りを兼ねて、釜山に来ています。お父さんが毎年いってる「植樹祭」というのに合わせて行くのは今回が初めて。要は在日韓国人たちが日本中から集まって、祖国である韓国に一年に一度帰ろう、木を植えることでふるさとを思う……という感じなんだと思う。

こういうのに来ている方たちだからというのも大きいと思うけど、来ている人の半分以上はことばがちゃんと話せる。としは50代〜80代。一世か二世なのかな。韓国のおばちゃんたちとはまた見かけもちがうけど、バイキングの食事の風景とかをみると「ああ、この人たちはやっぱり韓国人だわ」と実感した。(並ばない、トングは戻さない、知らん人の更におかずをのっけてあげるなどなど。悪口ではなく、もはや愛嬌を感じる。慣れたもん!)

韓国に対しての気持ちもあるんだろうけど、こういう機会に親戚同士が顔を合わせることをみんな楽しみにしているようだった。ここぞとばかりにはじけている。こんな集まり一人じゃ絶対来ないだろうし、いい経験だなーというかんじで、いろんな人の話きいたり、ようすを眺めている。

今日の晩ご飯では、「韓国は日本を追い越したよ」という叔父(滋賀に住んでいる方)に対して、もうひとりの韓国に住む叔父がこたえた言葉が印象的。「韓国人は自由な生活を送りたいと思っているけど、自由になるためには責任をもつことが必要。そういう意識が足りないから、技術的には発展しているけど、国民性という面では日本人がはるかに上だ」って。

そうだなってちょっと思った。責任をもってくれ……!と思うこと、たくさんあったもん。信用できなかったり、安心できなかったり。たまに残念だと思うときがある。

こっちに来て思ったのは「やっぱり日本がすきだ」ということ。韓国に対して愛着はあるけど、やっぱり住みたくないや(笑)人の性格も暮らしも、根付いている文化も。もっといえば、日本の”美”って、すごいなって思う。それは誠実さなのかもしれないし、ほかの国で感じることがない特別に惹かれるものがある。

こっちはたまに行くくらいで、いい気がするな。ご飯はおいしいから毎日食べたいくらいだけど!

2014年4月3日木曜日

叔父さん

今回、3泊4日の韓国では滋賀に住む親戚の叔父さん(以下、日野の叔父さん)のふるさとを尋ねることが大きな目的だった。

日野の叔父さんは9歳まで韓国で住んでいて、それから70年前くらいに日本に来てずっと関西で過ごしてきた。若い頃は多分生活することに必死で、今になっては身体が思うように動かなくなって、というときにうちの父親が声をかけて、うちの家族の里帰りと同じタイミングで一緒に韓国に帰ろうということになったのが今からちょうど一年前だった。

去年初めて、합천(ハプチョン)にある叔父さんのふるさとを尋ねた。住所の名前も時間が経ったからか全く変わっていて、家ひとつも分からない。でも、叔父さんが通っていた小学校が見つかったり、最後のさいごには叔父さんの親戚であろう人と山の道端で偶然会うことができた。

どうもこの人なら、言えば叔父さんの親戚とも繋がれるのでは…と思って名刺をもらって、今年も連絡してまた尋ねた。日本にあった家系図や戸籍のコピーを持ってって照らし合わせると、なんとその(偶然山で出会った)人は日野の叔父さんにとって従兄弟だった(すごく近い…)。「(そんなに近い関係だったんなら)去年の今頃、会った瞬間にもう少し話せば分かったことだろう」と叔父さんは時間が惜しいように癇癪起こしてたけど、一年後の今回だったからこそ、なんとその家系のあたらしいお墓を訪ねることができたんだった。(聞けば一年前に会ったときは、お墓を一カ所に集める工事をするために、数日間ふるさとに帰ってきていただけだったんだと。そのときに会えたことは、巡り合わせとしか思えない。)

せっかく会えたのに叔父さんもいい年齢の方だから怒りっぽいし、どーするよこれ(行く前にすでに疲れた)って正直なってたんだけど。やっぱり近い親族に会ったときの叔父さんの顔とか、あとは叔父さんのお母さんが韓国で暮らしていたという家の跡地に案内してもらったとき「いつ死んでもいい」と言ってもらえたことがとても嬉しかった。


2014年2月18日火曜日

帰ってきて

思い出すうちにほいほい書くね。メモ書きのようなものだから、あとから読みづらそうだけどな。

こっちに帰ってきて、まだ3日くらいだけど…意外とすぐ実家暮らしのリズムに戻ったし(20年も暮らしてきたらそりゃそうだけどさ)、案外「おいおい…(日本人たちよ)」って心でつっこむことが多い。もっと「やっぱりなんだかんだ暮らしやすいな」と落ち着くと思ってたけど、そうじゃなかった。それはすごく小さなことなんだけどね。たとえば、駅の人混みで人にすれちがうとき。ぶつかる頻度とか衝撃とかは圧倒的に韓国のほうが多いし強いんだけど(気にしたらほんとうに負け)、日本人もさ「韓国人はぶつかっても謝らない」とかいうわりに、全然謝んないじゃん!!って思った(笑)で、当たり方がちがうの。こっちの人たちはロボットみたい…。みんな、わたしを見てる?思いやりは、どこ?っていうかんじか。わたしが見知らぬ他人に期待しすぎなのかもしれないけど、人間的なものが少し欠けてるような…そういう衝撃を受けた。

これは本当に、マインド的なものがすごく関係していると思っていて。韓国人は相手のこころの領域に踏み込み合うことで生きてる。物理的にいえば、すごい小さい土地で生きてきたし、精神的にも迷惑を掛け合うことで人間関係を築いている。(だからあんまり小さいことで「ありがとう」とか「あ、ごめん」とか言わない。)で、自分のことで精一杯の時代が長かった。1970年代くらいまでずっと戦争とか独裁政治の国で、食べていくことに必死だったときがそれほど前じゃないし。それが公共の場の行動にも出てて、自分よければそれでよし!という性格がものすごい強い。ほんとに、むりだった(笑)歩きながらとか、カフェにいるときイヤホンしないで音楽を大音量で聞いたりテレビをみたり(なぜなの?)、ゴミも置き場とか関係なくめっちゃ道端にあるし(まるで、自分の家になければいいやというみたいに、粗大ごみももはやごみに見えないほど自然と放置されてる)、さっきいったように「私はよし」ってなれば別に人にぶつかろうがどうってことないのだ。実際の視野がめっちゃ狭い。だからなのかな。ところどころでの、人との距離がめっちゃ近い…。個人が意識する「自分のテリトリー」って存在するじゃない。半径1.5mとか(適当だけど)。それがたとえば30cmとか。「近いんだけど…なんか用なのか…?」っていうくらい、めっちゃ周り広いのに近いところに立つ、とかね。

それと、日本人の(とくに東京近辺の人たちの)視野の狭さ、心づかいのできない余裕のなさってなんか違うよね。韓国っていってもソウルとかだともしかしたら、似たものを感じてたかもしれないけど…大邱は少なくとも、元来のこの国の人の性質(たち)だろうって要素がたくさんあった(笑)



あと…帰ってきて今日感じた日本での違和感はね

・天気予報士の「あくまで予報ですので、必ずしも雪がふるとは」「でも万が一を備えて、準備を」「前回の量より多いか、少ないかといえば、少し多いですがそれも場合によります」みたいな、変な責任感のない予報。(わるいタチの視聴者に合わせてるんだろうだけど(当たらなかったじゃん!みたいなことを言う)、説明書もしかり…なんでこんなことしなきゃいけないくらい消費者側って常識なくなっちゃったんだろう。)

・絶対に来ないだろう、っていう信号で、寒いのにずっと立って待ってる。(わたしの住んでいる港北ニュータウンは住宅街なんだけど、とくに夜道は車が少ない。昼間はたとえ車が来ないだろうと思っても、こどもが見ていたりしていると「だめだめ」と思って止まってるときはわたしもある。でもさ……なんで……なんで右左みて何十メートル先も車が見えない信号で、ひとり何分も止まれるの?深い理由はないのかな?韓国は信号を必要に応じて…って感じで、基本的には交通ルール守るけど、絶対ひとが来ないなら赤でも車は右折してよかったり、人も信号頼らず(よくいえば)臨機応変に動いてる。どっちがどう、っていいたいわけじゃないけど、周りになにもない信号で青を待つっていう光景は韓国にぜったいないなって思った。素直に。


日本、やっぱりいいなと思ったこともあった。

・雪でうまった公道をだれかが、他のだれかのために、とても通りやすくしていること(くだらないけど………!韓国だったら、自分の家の目の前から目的地まで仕方なく靴一足分の幅をどうにかする、とか自分の最小限のことしかしない。絶対に公道を人二人分くらい通れるまで雪かくこととかやらないと思う。日本人はどっかの機関が動かなくたって、各々の問題を相手の問題にすこし置き換えて、「配慮」する行動が根付いていると、今日自転車で凍った道を走っていて感動した。さっきの駅の人混み問題とはちょっと矛盾するけど。もともとこういう精神根付いてるから、失望してるっていうのもある。)

・横断歩道わきで歩行者優先して車が止まってくれることに、おどろいた。(以前はあたりまえに思ってたんだけどさ。)あちらでは、完全に車優先。横断歩道ではち合わせて渡ろうとすると「なんで、渡るんだよ」っていわんばかりに人に車がつっこんでくる。日本では(わたし自身)「人をひいたりしないだろう」と思って道をわたるのと同様に、むこうでは「車のことをみてるだろう」と運転側が思ってるんだろうな。


韓国かんべんだよ…って向こうで思ったことは他にもたくさんあるけど

・仕事に対する責任感のなさ。アルバイトであろうと、日本人はマニュアルとか教育がしっかりされているほうだし、客側もそれを求めてる。あっちはそれがないから、接客は全然ちがう。(らくそうだし、別にいいんだけど。)一番怒ったのは時計を直しにいったとき。壊れてるものを、もっと壊されて何も弁償無しに「さっきまでよかったのよ。でももうどうしよもないわ」と返された時。おいおいおいおいおいおい…おかいしでしょー!!ってなったけど、そのときまだ言葉ができなくて、完全になめられてた気がする。結局別のところでなおしてもらったけど、あのおばちゃんの態度でわたしの中にある国全体に対する感情だいぶ変わったよ…一人で判断しちゃだめなのわかってるけど、ほんとうに、ほんとうにおかしかった!そうじゃない逆の人もたくさんいたけどね。

・「いい!」が柔軟じゃない。すべてにおいて極端で「自分のいい!は、相手にもいい」と思ってる人多い。その極端さで偏った価値観やら世論も大きくなっている気がして(韓国だけじゃないけどさ)、いろんなシーンにおいてマイノリティがほんとに生きづらいだろうなっていう感じ。が、した。


ねむい…もっと書きたいけど。小さい違和感で雑だが、とりあえず書いておく。

2013年12月7日土曜日

整理整頓

ははは。年末である。けど、寮にいると師走感が全くない。寒さだけが、名古屋の正月を思い出させるこの頃〜!今日は、ぼんやり、してな~い?っていう自分を叩き直したいタイミングだったから、文章にする。土曜日だし、デトックスするのだ。



こっちに来るまではただ、韓国人なんだよわたし、ってあまり深くものを考えず自分自身も認識して口にしていた。でも、こっちにきて「わたしの先祖、ほんとにここで生きてたの?」というくらい、韓国はわたしにとって外国である。味覚も合うようで微妙におかしいし、礼儀作法もなっているようでなっていない。日本のことを客観的にけなされると想像以上に傷つくし、在日韓国人と伝えると接し方ががらっと(いい意味で)変わる度合いが思ったよりも大きくて逆に戸惑ったり。なんといおうと、日本で22年間育ったわたしにとっては、この国で社会的な繋がりを持つ覚悟がないかぎり、この国が非現実的な「海外」だなあと思った。

こっちに来てひしひし感じるのは、韓国人ひとりひとりが、かなり日本を特別に考えているということ。ヨーロッパを例に挙げれば、昔から隣り合う国と国の間は問題が絶えないために仲がわるいというけど、海を挟んだ日韓もこの頃なかなか良好じゃない関係が表面化されている。さらにそれを煽るメディアのせいで、根拠もない(または付け焼き刃な知識でもって)「反日」「反韓」感情が生まれるのは、あほらしいし、やるせない気持ちだ。出来事を共有するときの感覚すべてに通じるだろうけど、歴史においてはとくに「真実」なんてないんだなあと思う。互いの認識をこすり合わせないかぎり、過去を都合よく組み合わせてひとりよがりな解釈を持ったままだ。互いの歴史の認識を確認し合うという意味で、最近協議されている教科書を共同で作成しようという動きは(どうなるのかまじでわからないけど)いいことなんじゃないかと思っている。

こっちに来て仲のいい韓国人ですら、みんな口をそろえて「独島は、当然だけど韓国のものだよ。それでね……(かるくまとめて、別の話にすすむ)」という具合である。そして時には、ドイツは戦時中の過ちを戦後からいま現在にかけても謝罪の意を示しているのに対して、日本はなぜあんなひどいことを50年近くも韓国に行なったのに謝罪の態度がないのかと責めるのである。「なんだその比べ方は……」と内心では思うんだけど、終わりがない言い合いになるのがわかってるので、とりあえず耳をかたむけている、という感じ。事実、韓国に興味がある日本人の中にも、その歴史があったときのことを意識している人って少ないと思うし。

でも正直いうと、韓国人はこれにこだわらず、とくに被害者意識を持ちやすい人種だと思う。いただいた恩は返すことが習慣づいている国だからこそ、逆に恨みを買うとかなり根強いんじゃないだろうか。ご飯の会計を割り勘で済ませる日本人に対して、こっちの人は簡単なものなら相手の分も出してあげるほうが自然だ。「これを買ってくれたかわりに、あとでコーヒーおごる」という約束をする。その場その場で区切りをつけて、いい距離感を保つ日本人の性質もどこかよそよそしく感じるが、韓国人によくしてもらうと「どうやって返せばよいのか…」とプレッシャーになるときも、たまに、なくない。ともあれ、そういう人種なのだ。人懐っこくて、情深くて、わたしはこの国民の性質がすきだけど、国単位になるとすごいめんどくさくて、大変だ。

昨日、本屋さんに行って、小学生が読む歴史の教科書を読んでいた。植民地時代に関していえば、「日本人はこんな残酷なことをした(拷問器具の写真をででーんと載せながら)」、「韓国人は苦しい生活に耐えながら、勇敢に独立に向けて、万歳運動をし続けた」などなど。それ以外の具体的な生活風景が描かれていない(それらもある意味具体的ではあるけど)。知り合いの中には、日本軍の指針にはむかって処刑された、運動の発端となった人物の名前を何十人も暗記して、中学の試験問題を解いたという人もいる。この教育の流れって、なんだ、日本を恨む感情しか生まない……のでは?と思わざるをえない。純粋な日本人じゃないから言えることだけど、むだな教育をしているなあと第一印象で感じた。

苦しい時代だったということを、このとき生きていた人たちは後世に伝えたいとは思っていただろう。でも、彼らがいかに生活の知恵をこらして過ごしていたかと尊敬する気持ちよりも、ただ敵国だった日本に対する恨みの感情を受け継いでいるようにしか見えなかった。当時の人たちが伝えたいのは、ほんとうにこういう側面だけなんだろうかと疑問に思う。

でもその一方で、わたしを含める日本人の無知加減もやばいと思った。こういう徹底的な教育を受けている韓国の実態を、日本人の多くは知らないんじゃないだろうか。もしこの国との関係が続くならば、事実がどうだったかではなく、相手がどう考えているか(どう誤解しているか、という見方でもいいから)理解する姿勢が大切だ。少なくとも、日本がこのまま「すでに謝罪はひととおりした」と言い張っても、逆効果を生み続けるようすしか想像できない。韓国人はいつでも日本人に対して、文化的な面での親近感と、歴史的な面での憎悪を少なからず同時に抱いているのを知っておくべき……なんじゃないかなあと、こっちに来て思った。そのくらい、こういう問題に対して話す時想像以上にナイーブな雰囲気になるのだ。……と、ここまで書いても、ほとんどわたしの感情やちょっとした経験のつぎはぎだから全然深められてない。小学生用の教科書読んで、もうちょっと勉強する!

2013年11月16日土曜日

銭湯パート3

今日はとなり駅のチムチルバンに行ってきた。ソウルにあるドラゴンスパには行ったことがあるんだけど、行く時は毎回週末で人が多いし、お湯はぬるいし、全然いい思い出がなかったんだけど…大邱にあるここは、程よく田舎で、お湯もよかった!(それらに比べたら、俄然!)

お風呂のようすはこれまでの銭湯とほぼ同じような感じ。チムチルバンは温度べつに4こあったけど、低温以外は到底入れなかったわ。

シャワーを使ってたとき、ふたつおどろいたことがあった。ひとつは、もう産まれるやろ…って妊婦さんが意気揚々といたこと。日本ってあんまり来ないよね、妊婦さん…あぶなくないのかな。もうひとつは、シャワーが並んでいる隅っこに、ぽつんと洋式の便器があったこと。なんで、なんでここにトイレ、と思いながらもまあ使う人なんておらんだろうと思っていた。けど、ふつうにみんな使ってた。人が裸でトイレするところを見る日が来るとは思わなかったよ。

韓国にきて3本の指に入るくらいのカルチャーショックだったかな、今日。

2013年11月10日日曜日

銭湯パート2

わたしはやっぱり、大きいお風呂が好きみたい。建築を勉強しようと思ったときの動機は「最終目標は、人が集まる銭湯を作る」ということだった、ぐらい(夢見がちもいいところである)。とにかく、なんか魅力的に感じる空間なんだわ。

マラソン大会が終わったあと、友達の実家がある駅の近所にある銭湯に行った。休日だからなのか、昼の12時すぎにいったら洗い場も湯船も人がいっぱい。さらに、湯船の縁に腰をかけて、人々はひたすら垢擦りをしていた。だけに関わらず、自分のからだではなく、お互いのからだをこするのね。その状景を目の当たりにして、猿と人ってほんとにもとは同じだったんだなあと思った。一人で洗っている人も、ここぞとばかりに色んな道具を使って垢を落としている。

日本のお風呂に比べると、いろんなことが面白く目に映る。ジュースを買ってお風呂のなかで呑んでる親子がいたり、水中めがねを付けて潜ってる子どもがいたり。掃除しているおばちゃんは(それだとわかるように)、下着のような水着のような赤いものを上下つけてるんだけど、みんなが裸でいるなかで逆にセクシーであった。

韓国人って人目を気にする人種なのに、たまにふとしたところで、「あ、そういうのは気にしないのか」というところが随所にある。よくわからないし、面白いわ。


脱衣所では、おばちゃんたちが磁石のようにおばちゃんとくっついて、大きな集いができていた。友達のお母さんは、銭湯に行くとおしゃべりがつきずに4時間出てこないらしい。日本の銭湯は馴染み同士で繋がりがあるっぽかったけど、こんな活気はなかったな〜。

10kmマラソン

「韓国に行ったら、やることもないし走るかな」とは思っていたものの、10キロも走ってさらには大会にまで出るとは行くまで考えてもなかった。

2、3日に10キロ走ってトレーニングしていたけど、わたしやっぱり意外と持久力ある!ずっと運動してなかったのに、どこにそんな体力が残ってるんだろう。体力っていうより、根性なのかもしれないな…。

記録は52分30秒。1キロを5分15秒ぐらいで走ったことになる。途中で道に迷って、こともあろう事か道なき道(というより草原)をかき分けたりして、元のコースに戻ったりした……それがなかったら、もっと記録よかったのに!と思うけど、最初だし満足です。走り抜いた後に、草原をかき分けたときにできた傷がミミズ腫れみたいになって、両足の脛が実はいま大変なことになってる。お風呂のとき、超痛かった。


こっちにきて、たまたま運動好きな友達に出会えたから、こんなことになっているわけで。今日あらためて自分に言い聞かしたのは「なにごともあたりまえ、ではないのだ」ということ。人の縁あってこそ、毎日の楽しみなりなんなりがある。んだけど、どこまでいっても、どこか自己中なんだよね。

寝る前に、1日に感謝!留学にきた最初の2週間くらいは、知らず知らずのうちにやっていたことだわ。わすれずに〜自然とまわりに返していきたいわ。

2013年11月7日木曜日

銭湯

어제 밤에 친구가 데려 가 줘서 처음으로 목욕탕에 가 봤다.일본에서 있는 "센터우(銭湯)"같은 것이지 않았고 헬스클럽에 병설된 것인 거 같다. 어제 갔던 곳은 수영장도 있었다.수영복을 사면 헤엄칠 수 있는가 보다.

목욕탕에 가면 4500원이었다. 일본에서는 400엔정도니까 별로 차이는 없는 거 같다.근데 일본보다 좋다고 느꼈다.탈의실도 깨끗하고 크고 헤어드라이어도 면봉도 있었다. 탈의실안에는 음료수나 옷이 팔려 있었다.아주머니가 많았지만 젊은 사람도 있었다.

목욕탕은 네 다섯 개 정도였다. 조금씩 온도가 다르고(딱 좋은 온도가 없었지만) 찜질방보다 좋다.뭐보다 감동한 것은 한 장씩 라미네이트된 신문이었다.그것을 읽으면서 목욕탕에 들어갈 수 있다는 말이다.

2시간은 있을 수 있다.다음에는 휴일에 가고 싶다.

昨日の夜、友達についていって、こっちでいう銭湯に行ってみた。日本の銭湯というよりは(お風呂ででーん、富士山だだーんって感じではなく)、ジムに併設されている風呂ってかんじ。昨日に行ったところは、プールの施設もあった!水着があれば泳げるみたいだから、買おう。

お風呂だけで4500ウォン。日本で400円ちょいだから、お金はそんなに変わらない。けど個人的には日本の銭湯よりよかった!脱衣所もきれいで広くて、ドライヤーも綿棒もあるし。脱衣所のなかに飲み物が売ってたり、服が売ってたりする。おばちゃんが多かったけど、若い人もいた。なぜか日サロにいったような色黒の人だったけど。

お風呂は4、5個あった。ちょっとずつ温度がちがって(ちょうどいい温度がなかったけど)チムチルバンとはうってかわって、とっても良かったなあ。ここでなによりも感動したのは、一枚一枚ラミネートされた新聞がお風呂の脇に置いてあること。湯船に浸かりながら記事を読めるのだ…。

サウナは、塩サウナと石サウナのふたつ。熱すぎず、ぬるくなく、長時間ゆっくり入っていられそうだった。

友達の予定があったから、1時間で切り上げたけど、倍は入れる!今度からは休みを半日使ってこようと思うでござる。

2013年10月26日土曜日

火事と子猫

이번주는 일본에서 20년 살고 있었어도 못 본 것을 두 개나 봤다.

첫번째는 화재. 카페서 공부하고 있다가 옆의 빈집에서 불이 나고 있었다.작았지만 소화기가 도움이 안 될 정도로 큰 것은 처음이었다.


두 번째는 길에서 죽어 있었던 새끼 고양이.

오늘 친구와 같이 걸어 있었을 때 만났다. 하필 시내에 있는 고양이 카페에 갈 길이었다. 그 친구는 고양이를 사랑한나 봐서 고향의 미라노 집에서도 5 마리 기르고 있다고 했다. 걸면서 그런 이야기를 하고 있던 참이었다. 그 길은 사람의 왕래가 많았는데 다 안 본 척을 해서 지나가고 있었다.

왜 고양이가 좋아하는 친구와 고양이 카페로 가는 길에서 이런 것을 봐야 한다고 느꼈지만 반대로 다행인 것인 것 같다.나도 혹시 혼자 있으면 아무것도 하지 않을 것 같는데 친구가 있어서 도와 주려고 하게 됐다.그렇게 생각하면 좋았다.

카페에 있었던 친구한테 신문지를 받아서 고양이를 싸고 공원에 묻어 줬다.아마 아직 태어난 지 5개월정도의 작은 새끼였다. 얼굴을 치인가 눈이 한 개 없었다. 생물은 간단하게 죽는 것이라고 실감했다.조금 전까지 살아 있은 몸의 온도를 느껴서 복잡한 기분이 됐다.



今週は、日本で20年生きてきても見なかったものをふたつも見た。

ひとつは火事。カフェで勉強してたら、となりの空きビルが燃えていた。規模は小さかったものの、消化器ひとつではどうにもならん火の勢いを初めて目の当たりにした。


もうひとつは、道路の上で死んでた子猫。

今日友達と道を歩いていたら、遭遇してしまった。よりによって、市内にある猫カフェに行こうとしていた道中だった。その友達は大の猫好きで、ふるさとであるミラノの家でも猫を5匹飼っていたらしい。そんな話をしていた矢先だった。人通りが多い道だったけど、地元の人はどうも思ってない素振りで通り過ぎていた。


なんで、猫好きの子と猫カフェに行く日に…と神様に問いただしたくなったけど、だから、だったのかもしれない。わたしも、もし一人だったら何もしてあげられなかったけど、猫が私たちを呼んだのかも。そう思うと、見つけてあげてよかった。

喫茶店で勉強してた友達に新聞紙をもらって猫をくるんで、公園の脇に埋めてあげた。多分まだ5ヶ月くらいの小さな子猫だった。顔を轢かれたのか、目がひとつなかった。生き物って簡単に死んじゃうんだという実感と、さっきまで生きていた気配が混ざって、すごく複雑な気持ちになった。

2013年10月12日土曜日

めがね

今日、めがねを買った。こっちに来て急に目が悪くなった。

無事に買えたものの、もらっためがねケースの表面には「I ♡DOK DO」とあった。透明のケースに凹凸でプリントされていて見えにくかったから、しばらくして夜に見返してからようやく気づいた。

店員さんの応対が良かったぶん、何度思い出してもやはりショック。友達に話したら「そんな意識もなく、うっかり渡しちゃったんじゃない」と言われたけど、そうだろうか。意識してわざとやったんじゃないのか。どちらにしても、問題アリだぜ……!

いろんなことを胸の内に秘めている人がいるってことかもね。親戚でもなく、友達でもなく、ただのめがね屋さんにそれを教えてもらったのはよかったわ。めがねが壊れても(向こうに悪気がなくても)、もう絶ーっ対行かない。


오늘 안경을 샀다.한국에 와서 갑자기 눈이 나빠졌다.

무사히 살 수 있었는데 받은 안경 케이스의 표면에는 "I ♡DOK DO"라고 써 있었다. 투명한 케이스이라서 그 글자가 잘 안 보여 잠시 후에 마침대 알았다.

점원의 응대가 좋았던 만큼 여러 번 생각나도 역시 충격이었다. 친구에 말하면"깊은 생각은 없고 그냥 무심코 주지 않았을까?"라고 했는데 그럴 수 가 있어? 일부러 했지 않았을까. 어차피 문제이지...!

사람마다 가슴 속에 숨기는 것은 다르다는 말인 것 같네.그런 것을 친척이라도 친구라도 아니고 그냥 안경 가게의 점원이 알려 줘서 좋았다. 만약 안경이 깨지더라도( 상대에 악의가 없더라도 ) 이제 그 가게에는 절대 안 가!

2013年10月7日月曜日

戦争記念館

週末にソウルの戦争記念館に行った。受付のおばさんに日本語の音声ガイドがないか聞いたら「あと10分で、日本語のガイドさんが来ます」とのこと。ほかにお客さんがいなくて、一対一で2時間くらい案内してもらえた。

親に聞いた話によると、わたしのおじいちゃん、おばあちゃんは朝鮮戦争のときに日本へ来ている。わたしからすれば、戦後の日本も同じくらいしんどい状況だっただろうに、それを上回るほどにどのくらいしんどい戦争だったのか全く想像つかなかった。へんな話をすれば、その出来事があったからわたしは日本にいるので、その中身を確かめたかったんだ~。

正直、あんなに色んな国が関わった戦争だと知らんかった。でもやっぱり、近いからこそ惨い戦いだったんじゃないかと感じた。それが3年間にも渡ったなんて信じられん。今出会う韓国人は、そのときを経て、生き残った人たちなんだよなと思うと、すごい。日本も同じか。

ガイドの人は70歳くらいのおじいさんで、独学で日本語を勉強したらしい。とても上手で、品がある喋り方だった。中立的な立場で解説してくれているのが伝わって、色んなことを話せた。

지난 주말에 서울에 있는 전쟁기념관에 갔다. 접수인 아주머니에게 일본어 음성가이드가 있는지 물어봤더니 더 10분 기다리면 일본어를 할 줄 하는 안내원이 올 거라고 해서 다행이었다. 결국 나 밖에 사람이 없어서 일대일로 2시간쯤 안내해 주셨다.

아빠한테 든 이야기에 따르면 내 할아버지,할머니는 조선 전쟁 때 일본에 왔다.내가 생각하면 전후의 일본도 같은 정도로 힘든 상황이었 을 것 같은데 그것을 넘을 만큼 바참한 전쟁이 도대체 어떤 시대인지 상상이 할 수 없었다. 이상한데 이 전쟁이 있어서 나는 일본에서 태어났으니까 여기에 와서 그 사실을 확인하고 싶었은 것이다.

솔직하게 말하면 그렇게 많은 나라들이 상관된 전쟁일 줄 몰랐다. 근데 역시 쟁지의 한국과 복한은 너무 가깝기 때문에 더욱 비참한 것인지 않았을까. 그 전쟁이 3년에도 걸친 것은 믿을 수 없다.지금 만나는 한국 사람들은 그때를 지나서 살아남은 사람들이라고 생각하면 싱기하다. 일본 사람도 같은데.

안내원은 일흔살가량의 할아버지였다. 독학으로 일본어를 공부하셨나 보다. 품위가 있는 말씨였다. 시종 중립적인 태도로 설명해주셔서 나도 여러가지 물어볼 수 있었다.